場所:東京都板橋区赤塚
アクセス:成増駅から徒歩約15分
【説明】
康正2年(1456)、千葉自胤(よりたね)によって築かれた城。
自胤と兄・実胤は、下総守護・千葉氏宗家の出身であった。しかし、享徳の乱に際して宗家の一族は、重臣の原胤房・馬加(まくわり)康胤らによって殺害され、家を乗っ取られてしまう。背景には重臣同士の権力闘争や、上杉氏勢力と古河公方勢力の抗争が続く関東情勢があった。
この反乱を生き延びた千葉兄弟は関東管領上杉氏の助力を得て落ち延び、兄・実胤が石浜城(台東区?)に、弟・自胤はここ赤塚城に入った(武蔵千葉氏)。その後、詳細な経緯は不明であるが弟・自胤が家督を継ぎ、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌の配下として数々の戦闘に参加。道灌も千葉氏宗家復興を支援したものの、最終的には上杉氏と古河公方の和睦成立による現状追認により、自胤による千葉宗家復興はならなかった。
自胤の死後も、武蔵千葉氏は小規模領主として存続する。最終的には北条氏に従うも、小田原征伐に際して所領を没収され、赤塚城は廃城となった。明確な遺構もかなり長い間残っていたが、昭和期になくなってしまったという。
【訪問記】
2024年冬、成増駅から徒歩で訪問。
城は北を向く崖の先端に位置し、東西が谷となっているため岡のように見える。公園として整備されているのは崖の北東側であり、西側は民有地で入口がわかりづらい。もっとも、現在西側でも公園整備が進んでいるため、完成すればアクセスしやすくなるはずだ。
遺構の有無は文献によって分かれるが、私は明確な空堀や土塁の存在は確認できなかった。ただし、本丸西側の谷に向かう勾配は、切岸のような人為的に作られたものに見えた。堀に見えなくもないくぼみもある。地形としては良く残っているので、城の形を想像することは可能だ。
本丸跡から北側へ崖を下りると、ため池公園がある。池は水堀の名残というが、堀を思わせる長方形ではなく円形。釣り人が10人ほど集って針を垂らしていた。ため池の隣には板橋区立郷土資料館がある。敷地内には古民家や火の見やぐら望楼や、新藤楼(板橋宿の遊郭)玄関などが移築されていた。
【余談】
千葉実胤の入った石浜城は正確な位置がわかっていない。一説には石浜神社(荒川区)にあったともいうが、赤塚城の案内板は台東区にあったとしている。どちらにせよ、浅草辺りを根拠にしていたようだ。
名所評価
面白さ:★★
・城郭マニアの方なら評価は変わるだろう。
再訪度:★
快適さ:★★
・園内は整備はされているが、公園西側(民有地?)は整備中で分かりにくい。
アクセス:★★★★
周辺スポット:★★★★
・東京大仏までは歩いて数分。隣接する郷土資料館も小規模だが面白い。
個人的満足度:★★★
・名門に生まれながら一族を虐殺され、ここ赤塚で太田道灌に従い家督奪還を目指した千葉自胤。そのドラマを思い浮かべながら訪問すると見え方も変わってくる。
本丸跡を示す石碑
園内図
説明板
説明板
西側から見た赤塚城跡
本丸北側の階段
本丸の端。土塁跡に見えなくもない?
西側の谷。手前が本丸側。
梅林。二の丸のあった場所?
ため池公園
城跡に隣接する板橋区郷土資料館
おまけ:郷土資料館前にある新藤楼玄関
参考:黒田基樹、2004、『扇谷上杉氏と太田道灌』、岩田書院