場所:埼玉県行田市、羽生市
日数:日帰り
旅行時期:2022年3月
この文章は、私が大学一年生の春休み(2022年3月末)にした旅行について、一か月ほど後に書いた旅行記である。
今読むと暗いダラダラした文章で恥ずかしいものだが、せっかく書いたものだから載せてみる。今後旅行記を書くことがあれば、こんなに暗くはしないし、センチメンタルな部分を排したものにするはずだ。
なお、旅行記が1となっているのは、続編も書く予定だったため。しかし続編執筆を諦めたせいで、この記事単体では情報不足となっている。
【田舎教師の旅1】
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣根からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出を着た田舎の姐さんがおりおり通った。」(田山花袋『田舎教師』冒頭より)
書影:岩波書店HP(https://www.iwanami.co.jp/book/b249041.html)より
私がこの明治末期に書かれた小説を手に取ったのは、2年半ぶりに開催された神田の古本祭りであった。久しぶりに懐かしい友人と会い、2人で路上に並ぶワゴンの横を間を縫うように歩いた。しかし私は金がない。そして本にも詳しくない。結果として、手に取るのはメジャーな文庫本や陳腐な歴史書ばかりであった。
そんな中、私は岩波ビルの前で、岩波文庫の『田舎教師』を手に取る。友人も薦めてこれは面白いよと薦めてくれたし、なにより灰色の退屈そうな表紙絵と、その下にある「限りない哀愁」という言葉が気にいって、その古本は私のものとなった。100円であった。
9日後、私と薄汚れた文庫本は、高崎行きの電車の中にあった。
地図:羽生市HP(https://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2010070200024/)より。
『田舎教師』の主人公・清三は、埼玉県北部、行田の城下町に住む文学青年である。同好の友人に恵まれ、片思いをして、そしていつかは文学で名を成す夢があった。しかし彼の強く、それでいておぼろげな夢は、卒業とともにやってくる現実に押しつぶされていく。友人たちが東京に出ていく中、彼が歩むのは行田から四里、小村・弥勒の小学校の教壇へと続く道であった...
3月も終わりかけの平日、午前10時、私は行田の駅に降り立った。近代的な駅前は広々としているが特に店もなく静かだ。清三の住んでいた行田の市街地までは、駅から1時間弱の道のりである。バスにでも乗ればよいものだが、春の陽気にほだされて、つい大通りを歩いていく気になってしまった。
コンビニで飲み物とチキンを買い、道を歩きながら朝食をとる。カモの泳ぐ川、広い畑地、遠くに見える工場や病院... 正直何か特色がある訳でもなく、人とすれ違うこともほとんどない。『田舎教師』とも所縁がある訳ではない。しかし、旅情は、四里の道への思いは、北関東の風景の中に膨れ上がっていった。
住宅街に差し掛かってくると、水城公園への看板が出てくるので、長かった駅からの道と分かれ、公園へと向かう。水城公園、なんて良い響きだろう!
実際の水城公園もその響きを裏切らなかった。東西の園池は優美なカーブを描いて、池端には人々が釣り針を垂らしている。桜はちょうど一番きれいな時期で、小さなアーチ形の石橋によく映えた。大正時代の信用組合の建物は淡い緑色のかわいらしい洋館で、春の暖かくのどかな空と似合っていた。
信用組合の裏手、公園の北東の方に『田舎教師』の文学碑があり、有名な一節が刻まれている。
「絶望と悲哀と寂寞とに堪え得られるようなまことなる生活を送れ。運命に従うものを勇者といふ。」
『田舎教師』を読んだことのある方ならご存じのように、この物語の主人公・清三は、実在の青年(本名:小林秀三、この旅行記では秀三と清三を区別しない)の日記をもとに描かれている。文学碑に刻まれた一節もまた、彼の日記の一部分である。「運命に従ふものを勇者といふ」の言葉の悲しさ、無力さ、青っぽさ。
日記はさらに「弱かりしかな、不真面目なりしかな、幼稚なりしかな、空想児なりしかな。今日よりぞわれ、勇者たらん。今日よりぞわれ、わが以前の生活に帰らん」と続く。明治の青年らしい仰々しく、切ない言葉が、美しい春景色の隅に思い起こされる。わたしもまた、いつまで空想児でいられようか。いつかこの感性も、こんな旅も、この文章も、幼稚に思えてくる日が来るかもしれない。しかし、今日は、幼いままに、旅をしよう。
水城公園を出て、忍城の門の跡などを通りながら、復興された天守閣を眺めに行く。この名城も、『田舎教師』を読んでから自分の中のイメージは変わっていた。
「城址はちょっと見てはそれと思えぬ位昔の形を失っていた。(中略)夕日は昔大手門のあったというあたりから、年々田に埋立てられて、里川のように細くなった沼に画のように明かに照り渡った。沼に架った板橋を渡ると、細い田圃道がうねうねと野に通じて、車を曳いて来る百姓の顔は夕日に赤く彩られて見えた。」(68頁)
廃城を通り、さみしい行田の町、さびれた士族屋敷の道を、清三と親友・郁治は、美穂子の家へと歩いていく。その美穂子こそ、郁治と清三の恋する女性であった... 文学の風景が、淡い青春の風景が、頭の中をよぎっていく。
忍城博物館の見学はまた今度の来訪に回し、行田の市街地を東へと歩いていく。下調べもしないで来たものだから、行田の町の蔵造りや、古い城下町の香りのする建物の並びに驚き感動した。清三の頃より時代は下ると思われるが、それでも彼の見た風景、歩いた道を思い起こすには忍城の天守より、この美しい街並みの方がよかった。大谷石の蔵が、北関東の文化の風を感じさせた。もっとも、目の前の風景は小説よりも幾分か豊かで、明るい雰囲気ではあったが。
清三の家のあとと思われる辺りも歩いたが特に石碑などを見つけることはできず、また下調べもしないで来たため、しっかりと確認することはできなかった。
ともかく、「四里の道」はここ行田の市街地からである。昔ながらの街並みをあとに、私の足は羽生へ、弥勒へと向かっていく。
川を渡り、古びた煙突のある工場の横を過ぎて、しばらくすると近代的なコンクリートに固められた用水路が見える。川端には桜が植えられて、真っすぐな水路に沿って延々と咲き乱れているのが一望できた。道を変え、今度はこの桜並木の下を歩いていく。用水路の流れは速い。
しばらくして水路ともお別れし、足を畑の広がる集落へと向ける。寺にはやはり桜が咲き、大小の古墳が見えた。古墳の上に鎮座する小さな社、春の光に照らされた道端の陋屋、土手の枯草が冬の香りを残している川、青い畑に咲きこぼれる桜... この道は清三が歩いたであろう道より幾分か南になる別の道だ。しかし、この風景も清三の見たものではないかと思えた。何もかもが美しかった。
道は十字路に差し掛かり、標識には「荒木」の文字がある。ここから先は人家も減り、道はただ広漠な関東平野の畑地の中をまっすぐ突き進むものとなっていった。北に南に遠く見える町の風景と、そこへ続く農道を見て、色々なことに思いを馳せた。
行田市から羽生市へと入ると、道の先に集落が、大きな寺の屋根が見えてくるようになった。『田舎教師』にも出てくる新郷の街並みである。このあたりで、清三の歩んだ道と今日私の歩む道は合流する。畑地の中突然に現れる人家、大きな造り酒屋、古い校舎を思わせる木造の建物…
秩父鉄道の新郷駅に向かうと、駅前には人一人いない。小さな無人の木造駅舎、木造の待合室。駅前広場は大谷石造りの土蔵などが囲んでいる。
新郷から羽生は秩父鉄道で一駅、歩いて30分ほどの道のりである。秩父鉄道の無人駅である新郷とは違い、羽生は近代的で大きな駅であり、その前まで大きな道が真っすぐに走っているので、駅舎も遠くからよく見える。しかし昼下がりでは人も少なく、駅構内には数人の高校生がいるばかりである。
駅の反対側に出ると雰囲気は打って変わって、小さな建物が狭い道沿いに続いている。これならば西口と違い、食堂もあるだろうか... 時間はもう午後の一時半にさしかかっている。シャッター街を徘徊すると、「純手打ちラーメン 伊勢屋」の看板が見える。迷わずに入っていく。
店内はテーブルといい、座敷といい、内装といい、家庭的で居心地が良かった。テレビではちょうどNHKがついていて、甲子園の国学院久我山の試合を放送している。体にしみるラーメンをすすりながら視線を腕に落とすと、服に引っ付き虫が何個もついていた。
ここ羽生駅前の辺りは、弥勒に赴任した清三が住み、やがて父母と共に暮らすことになった場所であり、その旧跡も残っているのだが、これについては訪問の時系列から、また後に書くことにしたい。
腹を満たした後は、弥勒への道を進んでいく。ここでも私の下調べ不足が原因で、清三の歩んだ旧道ではない道を歩んでいってしまっていた。
それでも旅路は楽しいものである。川沿いはまた桜並木が現れて、人びとが桜を眺めて春の暖かい日を楽しんでいる。町を抜けても、あるところにはコンテナの積まれた工場があり、あるところでは河川改修の工事員がいて、どこにも人の営みがある。
思い切って、畑の間の細い道を歩いていく。寂しい用水が流れ、何も植わっていない畑の端に咲く水仙が目立っている。和洋の人家が、カーキ色の小学校校舎が、畑の中に点在している。
道は弥勒に近づくにしたがって細くなり、白線によって確保される路側帯も細くなる。車が来るたびに、排水溝に落ちないよう気を付けて身をよじる。歩行者は私の他いない。
そして、その不便は弥勒の手前で最高潮に達する。東へ進む弥勒への道は、南北に通じる東北自動車道によって完全にさえぎられてしまっているのだ!もっとも、弥勒へと続く橋が一つかかっている。しかしこの橋は路側帯こそ確保しているとはいえ、大柄な人であればサイドミラーと右腕とが接触してしまうような細い間隔しかとっていない。都会の整備された歩道しか歩いてこなかった私には、少し怖い。しかし周囲を見回してもここしか、東北自動車道を越える地点はないのである。
高速道路が私たちの生活を支える大動脈であることは当然私も理解している。しかし、本来は歩いて一歩の村境が、歩いて越すことができない。橋やトンネルも1キロ間隔でしかない。これでは文化も、土地間隔も、全く隔絶されてしまう。私が享受してきた都会の利便の裏には、地域の断絶がある。
もっとも、車社会の人々にとってみればこんなもの一衣帯水の距離なのであろう。だが、ここまで歩くということに固執してきた私にとっては非常に大きな問題だ。
かといってここまで来てああだこうだも言ってられないので、意を決して橋を渡る。私のすぐ横を車が走っていく。急ぎ足で長い橋を渡り切ると、そこは弥勒の町であった。
「三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠の向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平屋造がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。埃に汚れた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。」(12~13頁)
橋を降りてすぐ、道の二股に分かれる地点に頼りなさげな松の木が数本植わっていて、その下に小さくひ弱な、和服姿の青年の像が立っている。清三の像、「田舎教師の像」である。四里の道は長かった。行田駅を出て5時間、清三の家のあった行田市街を出て4時間の道のりであった。空はいつの間にか曇りがちになっていて、歩いている姿で固まったままの銅像の背中は何か冷たく寂しく、儚く見えた。
銅像のすぐ近くに清三が代用教員として働いた弥勒高等小学校の跡を示す看板が立てられている。『田舎教師』の出版された明治42年に廃校となったとのことであり、裏手には殺風景な駐車場と、小さな文学碑とがある。
弥勒の町の西端の方に、小さな寺がある。不思議な形をした山門をくぐると、御影石でできた史跡碑のような見た目の墓がある。「田山花袋作、『田舎教師』お種さんの墓」との文字が刻まれている。
「弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲食に行ったりするということを兼ねて聞いていた。当分はその料理屋で賄もしてくれるし、夜具も貸してくれると聞いた。そこにはお種という綺麗な評判の娘もいるという」(14頁)
「娘は莞爾と笑って見せた。評判な美しさという程でもないが、眉の処に人に好かれるように艶な処があって、豊かな肉づきが頬にも腕にも露に見えた。」(18頁)
引用の通り、「お種さん」は弥勒の料理屋の看板娘だ。もっとも、清三は彼女に恋愛感情を抱くこともなく、ストーリーにかかわることはない。弥勒ののどかで退屈な風景描写の一コマを飾るだけの存在である。
しかし、それは小説の中のことだ。弥勒の村ののどかな風景の中で、「お種さん」こと小川ネンは欠かすことのできない人物だったはずだ。現実の弥勒の村の風景と、『田舎教師』の世界をつなぐ存在として、彼女ほど適格な人はいない。
ここ円照寺の境内にはお種さんの墓だけでなく、「お種さんの資料館」なる小さな展示室がある。電気もついておらず入るのには少し勇気がいるが、特に管理者が駐在している訳でもなく、訪問者は断りなしに電気をつけ、展示室に入っていく仕組みになっている。
小さな展示室内には「小川屋」で使われていた道具を中心に、お種さんの人生や『田舎教師』に関する展示がある。もっとも、焦点はお種さんや清三個人以上に、当時の弥勒の風景にあてている。
川端康成らが田舎教師の舞台となった利根川の河畔を散策している写真も展示されていたが、この時川端は『田舎教師』を読んでいなかったとのことである。
館内の来訪者ノートを開くと、確認できる最後の来訪者は1カ月ほど前、また訪問者のほとんどは羽生市内の人々であった。
大学のロシア文学の講義で、「昔は流行っていたのに、今では人気のない作家」を学生に問われた先生は、田山花袋の名前をあげた。花袋の名作も、現代人が読めば時代遅れで、童貞臭くて、単調で... 新潮文庫版の解説では福田恆存がこの作品を主人公の影が薄い、退屈だ、風景描写しか見るところがないとこきおろしている。
しかし、そんな弱く、純情で、繊細な清三の感性こそ、いつまでも等身大で、共感できる人を持ち続けると私は思う。いつか、この来訪者ノートに名を書いてある人と出会って話をして、利根川土手を歩いたらどんなに楽しいだろう。
資料館で頭に入れた地図をもとに、村役場や小川屋があったと思われる場所を歩く。先に引用した弥勒についての記述と異なり、現在の弥勒は人家は固まってあるものの、物を売る店などはなくただ郵便局はあるのみだ。道をそれると、整備された小川が竹藪の横を通り、畑地へ流れていっている。私は少し人家から離れた小道にうずくまって、道端の花と小川とを見ていた。
残念なことに、私はいつまでも時間を気にせずにここ弥勒に滞在することはできなかった。というのも、1日数本しか来ないバスが、そろそろ弥勒に到着するのである。スマホの電池は切れ、時計もしてこなかった私が、時間ちょうどにバス停の前に着くという芸当はできない。美しい弥勒の風景に別れを告げ、私は清三の像の横にあるバス停のベンチに座った。そして『田舎教師』のページを開く。
「この間も郁治と論じた。『えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入れ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……』こう言って清三は友の巧名心を駁した。けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。それだけかれは激していた。かれは泣きたかった。
それを今思い出した。『自分も世の中の多くの人のように、暢気なことを言って暮らして行くようになるのか』と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。」(107頁)
「教室にはいってみた。ボールドには、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。12+15=27と書いてある。チョークもその時置いたままになっている。ここで生徒を相手に笑ったり怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで他人でもあるかのようにはっきりと見える。色の白い、肉づきのいい、赤い長襦袢を着た女も思い出された。」(266頁)
花袋の文章はセンチメンタルに過ぎるといわれる。人称が混乱し、作者本人が顔を出して話し出す悪癖があるとされる。田舎の風物や人々に向けた視線も批判を受ける。
それでも、花袋の文章だからこそ、物語は私に響いた。私のセンチメンタルな感情は、弥勒の寂しい風景と、頼りない松の木によって高ぶり、言葉の一つ一つはここまで歩いてきた畑地の香りをただよわせているようで、意味もなく鼻水がでた。
バスは乗合バスだった。おばあさんと、壮年の男性が乗っている。羽生へ向かう橋をすぐにわたり切ると、誰も待っていないバス停を次々と越しながら羽生の駅へと向かった。
羽生の駅前でバスを降りてから清三の下宿先・墓所にも向かったが、ここについてはまた次の旅行記に譲ろう。とにかく、私のひ弱な体は知らず知らずのうちに疲れ切っていて、心もまたナイーブになり切っていた。電車に乗って『田舎教師』を開いたが、どうも文字が頭に入ってこず、いつのまにか眠りについていた。大学一年生はこうして終わっていった。
※引用箇所の参照頁は、岩波文庫版『田舎教師』改版第一刷(2018年)によっている。
追記
この旅行記で触れていない『田舎教師』関連の史跡は主に以下の2つ。
・今津印刷所:行田市街にある老舗印刷所で、『田舎教師』にも登場。嘉永年間に建てられた店蔵が現存。
・建福寺:羽生駅前にある寺院。秀三はここの本堂に下宿し、死後は境内に墓が建てられた(ともに現存)。寺の当時の住職・太田玉茗は花袋の義兄であり、彼が秀三の日記を花袋に見せたことから『田舎教師』は生まれた。
ほかにも、『田舎教師』に登場する道標などが羽生市内に残る。